アメリカで体感した「多様性」のチカラ

A rose is a rose is a rose.

国籍は私たちの個性の一部でしかなく、「多様性」の本質は「視座・視点」にある。

「違い」、それは私たちの好奇心と発展的未来の源泉となる

父の転勤で私たち家族は渡米し、小学校低学年の3年間をアメリカ西海岸で過ごしました。

当時、私は小学校一年生の一学期を終えたところで、母と一緒にハワイの叔母と親戚のところに一か月ほど滞在した後、アメリカ西海岸の現地小学校と日本人学校に転校しました。

日米の小学校教育を比較すると、アメリカは小学校一年生からみんなの前でプレゼンをするのが当然とされていたり、一時間の自由時間を与えられて遊び心を交えながらのクリエイティビティを発揮できる機会があったり、サマースクール等で大自然の中で集中的に遊ぶ機会があったことは特徴的で、能動的な「まなび」が多くありました。

ロサンゼルス近郊の西海岸ということもあり、クラスルームの仲間も様々な国籍やバックグラウンドの子ども達が集まり、そのため私たちマイノリティへの放課後授業のサポートが充実した環境で、とても恵まれていたと思います

滞在中に最も印象的だったのは、アジア系とは絶対に遊ばない白人の子どもや、仲良くなって遊びに行った韓国人のお友達のお宅でお母さまに口をきいてもらえなかったこと、握手しようと差し出された黒人のお友達の手のひらは黒くなかったこと、寡黙でいつも周りとの接触を避けているようにみえたインディアンの彼女とは最後まで仲良くなれなかったこと等、例えば私は「日本人」であるという国籍を起点とするアイデンティティを意識させられることが多かったことでした。

また、家族と出かけたメキシコへのリゾート地の帰りに立ち寄った国境沿いのティファナという町で、私とおなじ年頃の女の子が、私に向かってくるなり「花を買ってほしい」といわれたときの衝撃と、なにもできなかったことへの罪悪感は、いまでも忘れることはありません。

そして、子どもの頃に刻まれている記憶として残っているのは家族と過ごした国立公園での自然体験の数々でした。グランドキャニオンに沈む夕日や、デスバレーの乾いた土の草葉の陰で動いていた蛇やトカゲやサソリ、ヨセミテの大自然の森をゆっくり進んでいくバッファローの群れ、深い森の中でのキャンプ体験、ナイアガラの滝等。大自然だけでなく、スミソニアン博物館群やミニボールが水平の板を逆流するミステリースポット等々。いま思えば、この頃に教室の外で学んだことが、私のこれまでの人生の選択の数々に最も大きく影響しているかもしれません。

日本は極めて同質性の高い社会ですが、それでも多様な価値観が交錯し、調和が難しいことがある。

結局のところ、「多様性」の本質は「国」や「ジェンダー」ではなく「視座・視点」にあり、そのほかのことはすべて、私たちの個性に過ぎないのだと思います。

そう考えると、環境問題や気候変動問題を考えたとき、私たち「人間」を多種多様な870万種もある地球の「いのち」と「いのち」の複雑なネットワークの中の一部として捉え、いかにして究極のダイバーシティ&インクルージョンを実現していくのかという視点が大切になってくるのではないでしょうか。

日本には、アメリカとはまた異なった趣の、繊細で美しい、豊かな自然があります。

私たち日本人は万葉集の頃から、四季にわたる自然の美しさを詠み、自然のひとつひとつに神を見いだし、独特の美的センスを千年の歴史の中で紡いできました。世界を見渡してみても、とてもユニーク性も高い国であると思います。

イノベーシンは「新結合」とも訳されます。

やおろずの神の文化をもつ私たち日本は、歴史的にみても新しい「視座・視点」を柔軟に受け入れ、ローカライズさせながら取り込んできました。環境問題や気候変動問題を「生物多様性」の観点から捉えたとき、究極のダイバーシティ&インクルージョンというイノベーションは、日本だからこそ起こせるかもしれません。

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